腰部脊柱管狭窄症(ぎっくり腰、腰痛、脚の痺れ)

腰部脊柱管狭窄症(ぎっくり腰、腰痛、脚の痺れ)

3日に一度は繰り返していたぎっくり腰が出なくなった!

40代男性
来院に至った経緯
中学・高校と陸上部で砲丸投げや三段跳びをやっていた。時代柄、学生にしてハードなウエイトトレーニングをしていたため、高校生の頃から慢性的な腰痛があった。

今考えれば成長期も終わっていない学生に対してやるようなトレーニングではないなと思うが、当時の運動部は体罰のようなトレーニングが主流であり、夏場でも水も飲めないし、バーベルを担いでグランドをうさぎ跳びで一周などしていた。

高校2年生のときに初めてのぎっくり腰を体験した。陸上の練習中に動けないほどの激痛を感じ、両脚がビリビリと痺れるような状態となってしまった。陸上部の顧問からは気合が足りない、根性がないと言われたが、学生ながらこんなトレーニングをしていれば誰でもそうなるだろうと思っていた。

現に、上級生は何人も腰や背中を故障して部活を途中で引退していたし、ヘルニアの手術をしていた人もいた。両親もさすがにやりすぎでは?と心配してくれたが、途中で投げ出すのが顧問の先生に負けるような気がして、3年生で部活動を引退するまで頑張った。

大学生になり長距離に転向したが、それでも腰痛がなくなることはなく、酷いときには平坦な道を走っているだけでぎっくり腰になってしまったこともあった。当時は大学の陸上部にトレーナーがついていたため、マッサージやストレッチなどしてもらい対処していた。

社会人になってデスクワークの仕事に就いたが、腰痛もすでに感じ始めてベテランの域に入っていたので、普段はぎっくり腰をやってしまう前に近所の整体院や針治療院に行って対処していた。

5年前のある日、子供が小学生になりサッカーを始めたため、子供の練習に付き合って大学卒業以来約20年ぶりに運動をした。子供が蹴ってきたボールを軽く蹴り返した瞬間に腰と両脚にビリっと電気が走り動けなくなってしまった。

高校生の頃、初めてのぎっくり腰と同じ感じだったが、そこからが学生時代と違った。その日から日常生活のちょっとした動きで、1か月に一度はぎっくり腰をやってしまうようになった。ぎっくり腰をやってしまう頻度は度々短くなっていき、3か月前からは週1回は歩けないほど腰を痛めて、歩けるようになるとまた腰を痛めてを繰り返すようになってしまった。両足の痺れもずっと消えない状態となってしまい、両方のつま先から足裏にビリビリという痺れを感じていた。

整形外科を受診すると腰部脊柱管狭窄症だと診断され、手術をする以外に方法はないと言われた。自分の認識では脊柱管狭窄症はもっと年配の人がなるのではないか?と思っていたが、実際にレントゲンやMRI画像でも腰の椎間板が潰れているのは素人目に見ても明らかだった。

仕事も頻繁に遅刻や早退をするようになってしまい、このままでは行けないと思っていたが、学生時代から手術はしない方がいいと先輩たちから聞いていたため、まだ40代半ばで手術はしたくないけど、どう対処したらいいのか分からなかった。

これまでは針治療や整体で良くなっていたが、今回は何度施術してもらっても良くならなかった。そんなとき通っていた整体院の先生から、今の状態は普通ではないのでここの先生は凄腕のようですよと当院を紹介された。

当院とは直接面識はなかったが、たまたま当院のHPを見ていた整体院の先生からのご紹介という形で来院された。


【神奈川県茅ケ崎市から来院】
初診の状態
  • 01

    右仙腸関節の明らかな可動域制限

  • 02

    腰部起立筋の過緊張

  • 03

    腰椎5番の強い熱感

経過と内容
初診時の状態では、右の仙腸関節に明らかな可動域制限があった。体表温度検査では、骨盤部と腰椎5番、そして上部頸椎に明らかに左右の温度の誤差が確認された。実際に触診してみると腰椎5番は強い熱感があり、患部は炎症しているような状態だった。

レントゲン評価では、腰の椎間板の段階は慢性的なD6レベルで重度の骨盤の傾きも確認された。腰部の前弯カーブ(前カーズ)は消失して、腰部の椎骨が積み木のように積み重なっている状態だった。首の椎間板の段階はそれほど慢性的なところは確認されなかったが、頚部の前弯カーブ(前カーブ)が消失してストレートネックとなっていた。

腰部はかなり慢性的な段階だったため、初期集中期の段階では週3回のケアから開始した。

3週目(6回目のアジャストメント)には、患部の熱感が引いてきて、横になるのが楽に感じるようになった。ただし、この段階では歩いているだけでぎっくり腰を起こしてしまう状態が続いており、藤沢駅南口から当院までたった3分の距離を歩いているだけでぎっくり腰になってしまうこともあった。

5週目(10回目のアジャストメント)には、両脚のつま先まで感じていたビリビリとした痺れが弱くなってきて、代わりに太もも裏とお尻の奥に強い痛みを感じるようになった。この段階で週3回のペースから、週2回のペースに広げることができた。

8週目(16回目のアジャストメント)には、両脚の痺れは完全になくなったが、腰部に鋭い痛みを感じるようになった。

10週目(20回目のアジャストメント)には、腰部にあった鋭い痛みが緩和され、寝起きの腰の痛みもあまり感じなくなってきた。ただし長時間座った後に立ち上がる瞬間などは、ぎっくり腰になりそうな腰がぬけそうな感覚は残っていた。この段階でケアのペースを1週間に一度に広げることができた。

17週目(27回目のアジャストメント)には、腰がぬけてしまうような感覚はまったくなくなり、子供と軽くサッカーや水泳ができるまでに回復した。あまり無茶をすると翌朝腰の痛みを感じることはあったものの、ぎっくり腰のように歩けなくなるようなレベルではなく、日中活動していれば感じなくなる程度までは回復した。

現在は、ほとんどの症状が落ち着いたが、身体のメンテナンスとして定期的なカイロプラクティックケアを続けている。

考察
今回の腰部脊柱管狭窄症は、長年の骨盤部の乱れから腰部の神経に必要以上の負荷が掛かっていたものと考えられる。

背骨一つひとつの間には、ショックを吸収する役割がある椎間板という部位が存在している。背骨の数は基本的に24個あり、骨一つひとつの間にある椎間板は全部で23個ある。23個ある椎間板が1㎜ずつ縮んでしまうと、物理的には身長が2.3㎝縮んでしまうということを意味している。高齢になって若い頃と比べて身長が10~20㎝も縮んでしまう人は骨の変形以外では、この椎間板が潰れてしまうというのが要因の一つとなる。

腰部脊柱管狭窄症とは、腰の椎間板が潰れてしまった状態となる。多くの場合は腰の前弯カーブ(前カーブ)も消失した状態となるが、今回のケースでも椎間板は6段階の評価では一番慢性的なD6レベルとなっていて腰部前弯カーブも消失していた。

ここで考えなければならないのは、腰部脊柱管狭窄症となるほど椎間板に負担が掛かってしまった理由である。構造面で考えられる理由としては、骨盤部にある仙腸関節に制限がある場合である。

人間には補正作用がある。たとえば右の仙腸関節の動きに制限が掛かると、左の仙腸関節は過剰に動いてしまう。すると腰部には歩くたびに捻じれの動作が入ってしまう。椎間板は繊維輪状の構造になっており、捻じる動作に弱くできている。骨盤部のバランスの乱れは構造上でも負担となってしまう。

今回のケースでは、学生時代の成長期が終っていない状態で無茶なウエイトトレーニングによる負荷も無視できない問題出るが、最も考えられる原因は骨盤部の乱れによって腰部の神経に負担が掛かったため、これ以上神経に負担とならないように自然治癒力が働いた結果だと考えられる。

背骨の役割は「上体を支える」、「上体を動かす」、そして「神経を守る」である。この中で一番重要なことは間違いなく『神経の保護』となる。背骨は脊髄を保護している。24個ある背骨を24階建てのビルと考えた場合、24階建てのビルと2階建てと一軒家では、一軒家の方が安定することは容易に想像ができる。

つまり神経の保護が最も重要な役割である背骨は、これ以上神経に負担が掛からないように、クッションである椎間板を薄くして骨と骨をくっつけてでも安定させようとしている状態だと考えられる。

検査では顕著に右の仙腸関節の可動域制限が確認されたが、それによって腰部の神経に必要以上の負荷が掛かった結果、これ以上腰部の神経に負担が掛からないように自然治癒力を働かせて腰部の椎間板の厚みが減少していったのだろう。

神経の回復過程においては、「正常→痛み→痺れ→麻痺」の順番で進行していく。そのため回復過程では必ずその逆を辿ることにある。今回のケースでも、つま先や足裏のビリビリとした強い痺れから、太もも裏やお尻奥に鋭い痛みを感じ、それから腰に痛みが集中してきて解消されていく過程で回復していった。

仮に、今回の腰部脊柱管狭窄症のように、腰の椎間板がすべて潰れてしまっているような状態だとしても、そこへ負担を掛けている問題個所を特定する検査が何よりも重要なことは明白である。

検査によって問題の神経系を特定し、アジャストメントによってサブラクセーション(根本原因)が取り除き、神経の流れを整えて体の情報を脳へ届けることの重要性が分かる症例である。

執筆者前田 一真

神奈川県藤沢市出身。1972年に塩川満章D.C.が開院した銀座の塩川カイロプラクティック治療室に内弟子として入る。塩川満章D.C.と塩川雅士D.C.に師事し、副院長まで務める。また日本で最も歴史あるカイロプラクティック学校シオカワスクールでは現役講師を務めており、後任の育成にも力を入れている。2023年5月に地元である藤沢の地で、カイロプラクティックの最前線である塩川カイロプラクティック治療室で学んだ本物のカイロプラクティックを提供する院を実現するため、【前田カイロプラクティック藤沢院】を開院。

笑顔溢れ、心豊かに、幸せな毎日をサポートできるようにカイロプラクターとして尽力している。またシオカワグループの一員として、感謝・感動・希望に溢れる社会を目指している。

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